「電気の精」は「近代生活における芸術と技術」をテーマとするパリ万国博覧会の際に光と電気の館のために、ラウル・デュフィが構想を練り制作したものであります。この万国博覧会(万国博)は1937年パリで、5 月4日から11月 25日 まで開催され、会場はシャン・ド・マルスからトロカデロまで、さらにエッフェル塔からアンバリッドに及ぶエリアでありました。
平和と進歩を称えるために1932年から準備されたこの万国博は、国際的緊張の高まっていた時期に行われましたが、2年後に第二次大戦が勃発し、経済不況下のフランスは1936年には多数のストライキに見舞われました。このような状況は万国博に影響を与え、多くのパビリオンは未完成のまま開会式を迎えました。パビリオンの数は300、参加国は51か国、会場は105ヘクタール、来場者は3200万人となり、画家348名、彫刻家257名、室内装飾家118名がこの万国博に参加しました。万国博は期待通りの大成功を収めました。
電気業界を代表するパリ配電会社(CPDE,現フランス電力)が中心となり、光と電気の館の建設をモダニズムの建築家マレー=ステバン(Mallet-Stevens)に託し、「電気の精」の背後に現れる「光の社会的役割展」の演出をジョルジュ=アンリ・パンギュッソン(Georges-Henri Pingusson)に依頼しました。
シャン=ド=マルスの端に建てられた建物は長さ100メートル、高さ 20メートルで、かすかに湾曲していました。このため日暮れには揺らめく光や映画を正面スクリーンに映すことができました。ウエサンの新灯台ともいうべき光と電気の館が光の束で万博会場全体を照らしていました。2本のソレノイドの柱が7メートルの高さの電光を作り出していました。その前にフランスの彫刻家レリック(Wlerick)による雷を捕らえるゼウス像が立っていました(図1-11)。
「電気の精」
デュフィがこの注文を受けたのは、1936年 7月 7日になってからでありました。デュフィは61歳の高名な画家であり、すべての芸術的、装飾的技術に通じていました。すでにパリのビアール博士邸の食堂の装飾(1927-1933)やアンティーブにある、ベズベレール(Weisweiller, フランスの銀行家・コレクター) のラルタナの別邸の応接間の装飾(1928-1929)を制作していました(図12)。
しかし、条件は同じではありませんでした。資料集めの時間を考慮に入れると、このフレスコ画を11か月で仕上げなければなりませんでした。
デュフィは難題を引き受け、比類なきオーケストラの指揮者と化しました。完璧に大役を果たしたのであります。
科学的資料の収集は、物理学博士・ソルボンヌ大学講師・パリ配電会社顧問アンリ・ボルクランジェ(Henri Volkringer)の指導を受けた弟のジャン・デュフィが行いました。デュフィ自身メモを取り、数人の学者に会いに行きました。
デュフィはカンバスをやめ、高さ2m、幅1m20のパネル250枚を制作しました。パネルはかすかに曲がり、釉薬がかけられました。彼は念入りに乾燥と研磨を見守りました。ついで、パネルは金属の骨組みの上でネジ止めされました。
油絵の具は乾きが遅く、フレスコ画には不向きでした。そこでデュフィは知り合いの化学者ジャック・マロジェ(Jacques Maroger)に相談しました。マロジェはルーブル美術館の研究室長であり、昔の巨匠の技法からヒントを得て、「絵の具に透光性を与える」特殊な媒材を開発したところでした。この媒材を絵の具に混ぜると、待ち時間が少なくなり、何度も描き直すことができました。こうして絵画に透光性が与えられ、水彩画のように見えました。マロジェの指導のもとに、モントルイユ=スー=ブワのブルジョワ商会が絵の具にこの媒材を混ぜました。結局500キログラムの絵の具が使われました。
デュフィは多数のデッサンをガラス板に焼き付けました。ついで特殊なプロジェクターを使って、望み通りの寸法にガラス板の画像を引き伸ばしました。弟のジャンや二人の助手(アンドレ・ロベールとポーレ)が画像の周辺を描きましたが、大半はデュフィの手によるものでした(図13)。
下絵とリトグラフ
デュフィとパリ配電会社との契約によれば、デュフィは「電気の精」という装飾画以外に、その1/10の縮尺の下絵を描くはずでした。1937 年5月、デュフィは「ご注文の下絵を制作しますが、すぐにではありません。割り当てられるスペースによって、寸法を決めるのに多分役立つでしょうから」と述べました。フランス電力の1954 年2月 3日付けの報告書によれば、下絵は1938 年1月に提出されたので、デュフィがデッサンを描いたあと、装飾画の完成後渡されたのでした。デュフィは1951 年から1952年にかけて、リトグラフの制作中この下絵を使ったのであります(図14,15)。
1951年、パリ配電会社を引き継いだフランス電力公社の理事ガブリエル・ドシュ(Gabriel Dessus)は編集者のピエール・ベレス(Pierre Beres)に、「電気の精」を再び世に出すことを検討してほしいと頼みました。ベレスがこの計画をフェルナン・ムルロー(Fernand Mourlot, 近代絵画の解説者・リトグラフ作家)に打ち明けたところ、画家モーリス・ムルロー(Maurice Mourlot)やリトグラフ作家シャルル・ソルリエ(Charles Sorlier)の協力を得ました。デュフィは関節炎のコーチゾン療法を受けるため1年間アメリカに滞在していましたが、1951年 5月に帰国しました。デュフィは最初この装飾画のリトグラフに反対していましたが、やがて同意し、専門的に監督し、色彩や細部に手を入れました。ついに1/10の縮尺の最初のリトグラフが完成すると、デュフィはグアッシュで模様や色彩を描き直し、画面全体の調和を図りました。1936年に描いた下絵の原画を取り出し、下絵に欠けていた細部を補充して、リトグラフを修正しました。美術評論家ベルナール・ドリバル(Bernard Dorival)によれば、デュフィはこの作品に大満足したということであります。1937年の装飾画の弱点を少し苦にしていましたが、出来上がったリトグラフは完成度が高く、さらに人情味が加わったものとなったからでありました。
リトグラフは1953 年6月に刷り上がりました。10枚1組で、1 枚のシートサイズは100 x 60 cmでした。透かし模様の紙を使って、350 または 385部が作られました。リトグラフは当時最大のもので、そのため1枚ごとに20色以上を使い、200回刷らなければなりませんでした。デュフィは、リトグラフ全体の完成以前にこの世を去りました。オリンポスの神々の鎮座する中央部の2枚しか見ませんでした。フェルナン・ムルロー曰く、「私の唯一の後悔は、デュフィが数枚しか修正せず、1953 年5月に完成した作品を全部は見ることがなかったことであります」。リトグラフは複製以上の出来映えでありました。